出雲の茶道具
出雲の茶道具について
出雲の茶道具
出雲国を統治した「松平不昧公」といえば、茶の湯に精通している方々には不昧流の始祖であり、また茶道名器を蒐収し雲州名物を所有した大名茶人として知られています。不昧公は茶道を通して培った美意識を出雲の国に浸透させ、茶道具をはじめ美術工芸の振興や食文化の育成に至るまで文化を支えました。出雲の茶道具を語るうえで松平不昧公をおいて他なりません。
とりわけ不昧公の書蹟は現在でも貴重な茶道具の一つとして、茶の湯に関わる人には勿論そうでない方でも興味があるものです。不昧公の書体については幼少期より唐様の書体を習得したといわれ既に十代には力強い筆致を残しています。十代後半より小堀遠州の書法に傾倒し定家流書法に転換しながら、三十歳くらいまでは唐様と定家流を使い分けていますが、以降は独自の定家流を基礎とする不昧公独自の書体となってきます。今日一般的に不昧公の書跡と分かる書風のことです。
出雲焼
出雲焼は楽山焼と布志名焼に大別できる。
楽山焼
楽山焼は江戸初期、当時二代松平綱隆公が毛利公に萩焼の陶工を依頼しますが実現したのは三代松平綱近の時代(1677年)であったといわれます。
創窯者に倉崎権兵衛、加田半六らがいます。権兵衛の特徴は重厚な伊羅保写茶碗に見られ楽山特有の鉄分の多いやや赤みのかかった土味が見受けられます。
二代半六の茶碗は、権兵衛の重厚さとは異なりねっとりとした土味と轆轤のきいた茶碗がみられます。半六は二代より四代まで続きますが作風は特定できません。
その後八代藩主松平不昧公の時代になると藩命により長岡住右衛門を召し出され再興します。一般的に初代長岡住右衛門と言われますが、倉崎権兵衛より数えると楽山焼五代目となります。作風は小石まじりの土を用いロクロ目のきいた不昧公の御好みに沿った茶碗を残し、不昧公や四女の堀田玉映、家老の有澤宗意の箱書があるものもあります。
長岡家二代空斎(六代目)は不昧公の命により九州や京都で焼成や絵付の勉強をします。作風は伊羅保茶碗の他、主に藩用のねっとりとした三代土を用いた京風色絵の春草、秋草、海老、鳳凰茶碗等の優品を残します。楽山焼の色絵は空斎より始まったといわれます。その後長岡家は代々住右衛門を襲名し七代空入、八代代庄之助、九代空味、十代空処、十一代空権へと続きます。現在では十二代目となる空郷も更なる飛躍を求め作陶されています。
空入(七代)は主に薄手の刷毛目茶碗や伊羅保茶碗また独自の遊び心のある絵付けを施した茶碗が多く見受けられます。江戸後期から明治にかけて、それまでより茶の湯が衰退の時期ではありましたが、伝統を重んじ作陶された茶碗はいまでも茶の湯の取り合わせにかかせない作品です。
空味(九代)の作品は、茶道具のみならず煎茶道具や日常品を含め数多くの作品を残します。作風は空入同様に独自の画風による上絵付や手のりのよい茶碗などがあります。表千家や裏千家の箱書や御好みの数物茶道具も比較的見受けられ、今日お茶会等でもお目にかかる機会が多いと思います。また不昧公百年忌において名物写しの千種伊羅保茶碗、南蛮写水指や建水等の作品を制作し広く知られるところとなります。
空処(十代)の作品は、時代に沿った茶の湯道具全般を作陶しました。作品のなかには空味との親子合作で数印のものもあり、当時、窯での作陶の様子を垣間見えることが出来ます。
空権(十一代)は三十代で後を継ぎ、伊羅保茶碗を基盤とした茶の湯道具や時代のニーズに沿った、また茶人の要望に応えるべく優れた作品を多く残されていて、現在もなお新しいものに挑戦し作陶されています。
布志名焼 土屋雲善窯
松平不昧公の藩命により布志名の地に於いて開窯した土屋善四郎芳方は、御用窯として茶の湯道具の他日常品まで制作します。色絵付や三代土(藩用土)を使用し洗練された茶碗などが残っています。
二代土屋善四郎政芳は、不昧公より出雲の雲と善四郎の善をとり雲善の号と瓢箪印を与えられます。不昧公好みの道具を制作し、土屋家には大円庵様御用品控がありますが、不昧公の注文が詳細に記載されています。上絵付の雁の茶碗、海老茶碗、また雲善黒とよばれる楽風の茶碗に鶴を描いたものが有名です。
三代土屋善四郎善六の作風も綺麗な色絵で描かれた茶の湯道具や日用品が残っています。また津和野藩のお庭焼である綾焼の指導制作にあたり交趾釉や三彩釉などの傑作品を残しています。また楽山焼空斎が実弟になることから技術的な交流もあったようです。
四代土屋善六のころは明治を迎え茶の湯の衰退の時期ではありましたが、時代に沿ったまた代々の作風を重んじ作陶します。
五代土屋伝太郎は明治初期に若山陶器会社を設立し、諸外国に向けた黄釉や織部釉を用い日本の風情が感じられる上絵付や薩摩焼風色絵などを施した鑑賞陶器や日用品陶器などを輸出用として制作しました。現在でも里帰り品として人気があります。
六代武次郎、七代定好、八代善四郎、現在は九代土屋幹夫氏が伝統ある布志名焼を継承されていて茶の湯道具の他日用品、または時代に沿ったオリジナルの焼物を制作されています。
布志名焼 永原窯
初代永原与蔵順睦(雲與)は独学により布志名に開窯し黄釉、緑釉などを用いた茶の湯道具を制作します。また不昧公の命により御庭焼で楽焼なども制作します。主な作品に陶胎を白化粧にしてコバルトで絵を描いた安南写の茶碗などが見受けられます。
二代永原与蔵建定(雲永)は、ロクロ技に優れた職人であり黄釉の作品なども制作しました。雲永作の乾山写大根茶碗は三代土(藩用)に小石を交え制作されたものや印のあるものとないものがありますが、いずれにせよ雲永作の大根茶碗は明瞭であり茶室に映えるので人気があります。
三代永原与蔵房則は二代と同じ雲永印を用います。時代は幕末から明治にかけそれまでよりも茶の湯の衰退の時期ではありましたが、藩主松平定安に仕え御用窯として数多くの制作を勤めました。薩摩風で半筒になった金彩七宝紋秋草茶碗や金彩七宝紋松竹梅茶碗など優れた作品を残します。また黄釉のコーヒーカップや洋食器などの輸出品なども制作しました。
四代永原由五郎が明治四十三年に没して永原窯は廃業となります。
漆壺斎と勝軍木庵
小島漆壺斎
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初代漆壺斎
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初代漆壺斎は不昧公に随行し江戸大崎屋敷に入り、原羊遊斎に蒔絵を学びびます。狩野伊川院下絵の月に秋草図棗の制作をきっかけに不昧公より漆壺斎の号を賜ることになります。不昧公好みの茶の湯道具をはじめ数々の格調高い優品を残します。
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二代漆壺斎
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作品は少ないですが細かい作風と綿密な蒔絵の棗類、他お菓子器などの茶の湯道具を残します。作品には乗継銘となっているものが見られます。
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三代漆壺斎
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棗を中心とした茶の湯道具を残します。尾形光琳風の青貝や鉛を用いた棗や木目を活かしたもの、和歌を描いた棗などを制作します。また硯箱や懐石道具なども比較的多く制作します。
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四代漆壺斎
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不昧公没後百年忌では不昧公好みの茶の湯道具を制作します。塗、蒔絵とも丁寧な仕事をしたことで現存品でも洗練された綺麗さが残ります。棗類などの木地は指物師の小林幸八が造ったことで、木地作品には幸八の銘のものもあります。多くの作品は漆銘で漆壺斎と描いてあります。
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五代漆壺斎
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明治から昭和にかけ活躍し、漆壺斎代々の作風に加え、オリジナルの構図や鮮やかな色漆を用いた作品を制作するなど時代に沿った作品を残します。
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六代漆壺斎
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主に棗類を製作し、塗や蒔絵とも代々の作風、技法に忠実であることが作品の中にみることが出来ます。
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七代漆壺斎
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現在活躍中です。
勝軍木庵
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勝軍木庵光英(ぬるであんみつひで)
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九代藩主松平斉斎公の時代、江戸の蒔絵師梶川清川に従事し技法を学びました。斉斎公より勝軍木庵の号を賜ります。豪華な高蒔絵や繊細な漆絵の作品が多くまた重厚感あふれる作品を残します。茶の湯道具の他、印籠や文台硯などで秀でた作品は現在でも評価が高いとされています。作品には光英と漆や金銘が多くみられます。
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二代勝軍木庵春光
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幕末から明治にかけての動乱期ではありましたが、初代の高蒔絵を受け継ぎ忠実な茶の湯道具を残します。作品には勝軍木庵造、春光、光と金銘があります。